福岡の豆知識

福岡の歴史。戦国時代から江戸時代まで

古代に九州の統括府である大宰府が置かれたことで、九州を支配するためにはまず現在の福岡市とその周辺を押さえなければならないと考えられていました。そのような歴史的風潮は中世以降も続き、福岡は西国大名たちにとって最も重要な係争地となっていくのです。

実はかなりの長期間!?福岡は日本で最も戦国的状況が長い

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一般的に戦国時代とは、応仁の乱以降から始まるとされています。しかし、戦国的な状況が波及していくのには地域的に段階差があり、一律的に日本全体が戦国時代に突入したわけではありません。「戦闘状態が断続的に継続する状況を戦国時代」と規定するのであれば、実は日本で最も早く戦国時代に突入した地域は福岡なのです。その始まりは、南北朝時代に後醍醐天皇方に敗れた足利尊氏が福岡に落ちのび、多々良川のほとりで後醍醐天皇方の軍勢と合戦をした所まで遡ります。
また、九州に拠点を置いた後醍醐天皇方の征西将軍府と足利尊氏の幕府方がまさに福岡で鎬を削っている最中、幕府方で反旗を翻した軍勢が九州に流入してきたことで、福岡を中心とした九州地方では錯綜した状況で戦乱が繰り返されます。足利義満が今川了俊という名うての武将を福岡に派遣するまでこの戦乱は継続し、1392年の南北朝の合一をもって九州での宮方と武家方の対立は収束します。こうした福岡を主な舞台とした『観応の擾乱』と呼ばれる戦乱状況により、福岡では14世紀中期から既に戦国時代としての様相を呈していたと言えるのです。

戦国時代を先取り?熾烈な博多争奪戦

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福岡の中でも博多を支配することには、中世において特別な意味がありました。その理由は、ひとえに博多が日本最大の貿易都市だったためです。博多の支配は巨万の富を得ることに等しかったため、南北朝の動乱が収束して以降も、在地勢力の間で熾烈な博多争奪戦が繰り広げられ、さながら戦国時代を先取りしたような状況を示していました。
本来博多を含む福岡地方を支配していたのは、少弐氏という鎌倉時代からの武将の家柄でした。しかし、福岡を重要地と認識した室町幕府による「九州探題」という九州武士の統括官の派遣が、福岡の状況をより混迷へと導いていきます。九州探題が今川了俊から渋川満頼に代わると、当時の少弐氏の頭主であった満貞と鋭く対立するようになります。渋川満頼から子の義俊へ九州探題職が移ると渋川氏の勢力は衰微していき、これを助けるために山口を拠点としていた大内持世が博多に進出してきます。
以後は主にこの少弐氏と大内氏の間で博多争奪戦が繰り広げられ、幕府の権力を背景としていた大内氏が次第に福岡での地歩を固めていき、日本が戦国時代に突入した時期に福岡へ進軍した大内政弘によって、この少弐氏と大内氏の戦いは大内氏勝利で終焉を迎えるのです。

裏切りによる焦土から復興へ

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戦国時代に福岡で支配権を確立した大内氏でしたが、16世紀中期に入ると家臣らの謀反により急激に勢力を失っていきます。山口でも大内氏の勢力が衰えたことで、博多を中心とする福岡の支配は、長らく博多の北半分を遠隔地支配していた大友氏によって担われるようになります。しかし、大友氏も本国である豊後(大分県)の支配を固めねばならず、一時博多支配が覚束なくなります。この隙に乗じて大友氏に反旗を翻したのが、元少弐氏の一族であった筑紫惟門という武将です。惟門は福岡から他勢力を排除するために、博多に火を放ちます。これにより、約800年にわたって貿易都市として栄えた博多は一度完全なる焦土と化してしまいます。
これを復興したのが豊臣秀吉です。秀吉は朝鮮出兵を行うために、博多を兵站基地として活用することを思いつき、これにより博多の町は再整備されます。そして豊臣氏から関が原の戦い・大阪冬の陣・夏の陣を経て徳川氏に政権が移ると、小早川氏に代わって黒田長政が初代福岡藩主として着任します。長政以後は「黒田騒動」と言われる藩存続の危機を迎えますが、これを乗り切った黒田氏は長く福岡藩を統治することになるのです。

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